第二章 シロノキオク
- ともしょう
- 6月30日
- 読了時間: 4分
夜の水族館に、新しい光が現れました。
それは、水底からゆっくりと浮かび上がってきた、小さなかけらでした。
他の光よりも、少しだけ温度を持っているように見えました。
少女はそれを両手ですくい、
硝子の瓶に入れようとします。
けれどその光は、瓶の中でゆらめいたあと、
まるで“マッテイル”かのように、消えずにそこにとどまりました。
その瞬間でした。
瓶の中の光が、ふわっと広がりました。
水族館の天井が溶けるようににじみ、
硝子の床がやわらかく波打ち、
ふたりの周りに、別の風景が広がっていきます。
それは、古い家でした。
木の匂いが立ちのぼるような、あたたかな部屋。
小さな窓。
光をやわらかく揺らす、レースのカーテン。
そして、縁側に座る、ひとりのおじいさん。
白い猫が、彼の膝の上で眠っています。
少女は、自分がそこに立っていることに気づきました。
けれど、おじいさんは少女を見ません。
少年の存在にも気づきません。
彼らはおじいさんのキオクの中にいるのでした。
触れられない。
声も届かない。
ただ、その場に立ち会うことだけが許されています。
おじいさんは、猫の背中をゆっくり撫でていました。
「おまえがいなくなったら、わしは困るぞ」
そう言って、笑います。
「……静かになりすぎてしまうからな」
その声は、やさしくて、少しだけ寂しそうで。
おじいさんの言葉の中には、
まだ失っていないものへの恐れと、
失うことを知っている人の覚悟が、混ざっていました。
少女の胸の奥で、かすかに揺れるものがありました。
やがて、風景が変わりました。
同じ縁側。
日が落ちかけて、綺麗な夕焼けがのぞく、あたたかな部屋。
けれど、猫の姿だけがありません。
おじいさんは、空になった膝を撫でています。
そこには、もう何もいません。
それでも彼は、普段から話しかけているかのように、ゆっくりと声を出しました。
「今日も、いい天気だったな。まだ寝てるのか?」
少しだけ、笑って、言います。
「好物の缶詰めを買ってあるぞ」
その手は、空っぽの膝の上を撫でているはずなのに、
どこか確かに、触れているように見えました。
「早く、起きないか」
その途端。
少女の胸の奥が、ぎゅっと締めつけられました。
息が細くなり、
喉の奥が熱くなって、
目の奥に、痛みに似た感覚が走ります。
いないものに、話しかけること。
返ってこないとわかっていても、
そこにいるように、触れ続けること。
それは、とても苦しいことでした。
終わってしまった時間に、
手を伸ばし続けることだからです。
けれど。
少女は、その光景から目を離せませんでした。
おじいさんの手は、空を撫でていました。
しかしその仕草は、決して『空っぽ』ではありませんでした。
そこには、確かに触れていた時間が残っていて、いまもなお、そこに在り続けていました。
いなくなっていない。消えてなんかない。
そのことに、少女は、ふと気づきます。
胸の奥の痛みが、わずかに形を変えました。
少女の視界が、ぼんやりとにじみました。
ぽたり。
足元に小さな雫が吸い込まれていきました。
涙、でした。
悲しみだけではない、どこかあたたかさを含んだ、やさしい痛みを含んだ雫。
少女は、それを初めて知りました。
そして、自分が泣いていることに、少し遅れて気づきました。
その隣で。
少年は、動けなくなったかのように、立ち尽くしていました。
視線は、目の前にはありませんでした。
夕焼けの色が、にじみます。
帰り道。
隣を歩いていた、誰かの気配。
言わなければ、と思っていた言葉が、
手のひらから零れ落ちていきます。
名前を呼べばよかった。
ほんの一歩、近づけばよかった。
けれど。
ぽたり。
彼からも、ひとつ、光が落ちました。
瓶の光が、ふわっと膨らみます。
そして、次の瞬間、ふたりは再び、水族館に戻っていました。
硝子の床。
冷たい空気。
水槽の中の影の魚たち。
よく見慣れた風景の中に、
あのキオクが、少しだけ形を変えて収まっていました。
それはもう、ただのキオクではありません。
あの部屋の木のにおいをかんじさせる暖かさを灯しています。
少女は、その瓶を両手で包み込み、
確かめるように抱きしめました。
そして、小さな紙片を取り出します。
そこに、文字を書きました。
「最愛」
その紙を、瓶の首にそっと結びます。
それは、このキオクに与えた名前でした。
感じたものを忘れないための、少女なりのしるしをつけます。
そのとき
少女の顔に咲く花は、ほんのわずかに色を帯びたのでした。
隣で、少年はその様子を見ていました。
彼の中に残ったものは、その名前には収まりきりませんでした。
同じ記憶に触れていたはずなのに、彼の中に残ったのは、別のもの。
言葉にしようとすればするほど、こぼれていってしまうようで、
少年は、ただその瓶を見つめることしかできませんでした。
夜の水族館に、静けさが戻ります。
けれどその静けさは、先ほどとは違っていました。
そんなふたりを、棚に並べられた瓶たちは
今夜もただ、見守っているのでした。


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