第二章 シロノキオク
夜の水族館に、新しい光が現れました。
それは、水底からゆっくりと浮かび上がってきた、小さなかけらでした。
他の光よりも、少しだけ温度を持っているように見えました。
少女はそれを両手ですくい、
硝子の瓶に入れようとします。
けれどその光は、瓶の中でゆらめいたあと、
まるで“マッテイル”かのように、消えずにそこにとどまりました。
その瞬間でした。
瓶の中の光が、ふわっと広がりました。
水族館の天井が溶けるようににじみ、
硝子の床がやわらかく波打ち、
ふたりの周りに、別の風景が広がっていきます。
それは、古い家でした。
木の匂いが立ちのぼるような、あたたかな部屋。
小さな窓。
光をやわらかく揺らす、レースのカーテン。
そして、縁側に座る、ひとりのおじいさん。
白い猫が、彼の膝の上で眠っています。
少女は、自分がそこに立っていることに気づきました。
けれど、おじいさんは少女を見ません。
少年の存在にも気づきません。
彼らはおじいさんのキオクの中にいるのでした。
触れられない。
声も届かない。
ただ、その場に立ち会うことだけが許されています。
おじいさんは、猫の背中をゆっくり撫でていました。
「おまえがいなくなったら、わしは困るぞ」
そう言って、笑います。
「……静かになりすぎてしまうからな」
その声は、やさしくて、少しだけ寂しそうで。
おじいさんの言葉の中には、
まだ失っていないものへの恐れと、
失うことを知っている人の覚悟が、混ざっていました。
少女の胸の奥で、かすかに揺れるものがありました。
やがて、風景が変わりました。
同じ縁側。
日が落ちかけて、綺麗な夕焼けがのぞく、あたたかな部屋。
けれど、猫の姿だけがありません。
おじいさんは、空になった膝を撫でています。
そこには、もう何もいません。
それでも彼は、普段から話しかけているかのように、ゆっくりと声を出しました。
「今日も、いい天気だったな。まだ寝てるのか?」
少しだけ、笑って、言います。
「好物の缶詰めを買ってあるぞ」
その手は、空っぽの膝の上を撫でているはずなのに、
どこか確かに、触れているように見えました。
「早く、起きないか」
その途端。
少女の胸の奥が、ぎゅっと締めつけられました。
息が細くなり、
喉の奥が熱くなって、
目の奥に、痛みに似た感覚が走ります。
いないものに、話しかけること。
返ってこないとわかっていても、
そこにいるように、触れ続けること。
それは、とても苦しいことでした。
終わってしまった時間に、
手を伸ばし続けることだからです。
けれど。
少女は、その光景から目を離せませんでした。
おじいさんの手は、空を撫でていました。
しかしその仕草は、決して『空っぽ』ではありませんでした。
そこには、確かに触れていた時間が残っていて、いまもなお、そこに在り続けていました。
いなくなっていない。消えてなんかない。
そのことに、少女は、ふと気づきます。
胸の奥の痛みが、わずかに形を変えました。
少女の視界が、ぼんやりとにじみました。
ぽたり。
足元に小さな雫が吸い込まれていきました。
涙、でした。
悲しみだけではない、どこかあたたかさを含んだ、やさしい痛みを含んだ雫。
少女は、それを初めて知りました。
そして、自分が泣いていることに、少し遅れて気づきました。
その隣で。
少年は、動けなくなったかのように、立ち尽くしていました。
視線は、目の前にはありませんでした。
夕焼けの色が、にじみます。
帰り道。
隣を歩いていた、誰かの気配。
言わなければ、と思っていた言葉が、
手のひらから零れ落ちていきます。
名前を呼べばよかった。
ほんの一歩、近づけばよかった。
けれど。
ぽたり。
彼からも、ひとつ、光が落ちました。
瓶の光が、ふわっと膨らみます。
そして、次の瞬間、ふたりは再び、水族館に戻っていました。
硝子の床。
冷たい空気。
水槽の中の影の魚たち。
よく見慣れた風景の中に、
あのキオクが、少しだけ形を変えて収まっていました。
それはもう、ただのキオクではありません。
あの部屋の木のにおいをかんじさせる暖かさを灯しています。
少女は、その瓶を両手で包み込み、
確かめるように抱きしめました。
そして、小さな紙片を取り出します。
そこに、文字を書きました。
「最愛」
その紙を、瓶の首にそっと結びます。
それは、このキオクに与えた名前でした。
感じたものを忘れないための、少女なりのしるしをつけます。
そのとき
少女の顔に咲く花は、ほんのわずかに色を帯びたのでした。
隣で、少年はその様子を見ていました。
彼の中に残ったものは、その名前には収まりきりませんでした。
同じ記憶に触れていたはずなのに、彼の中に残ったのは、別のもの。
言葉にしようとすればするほど、こぼれていってしまうようで、
少年は、ただその瓶を見つめることしかできませんでした。
夜の水族館に、静けさが戻ります。
けれどその静けさは、先ほどとは違っていました。
そんなふたりを、棚に並べられた瓶たちは
今夜もただ、見守っているのでした。


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