第一章 キオクのカケラ
- ちも *ちも
- 11月12日
- 読了時間: 3分
水族館の中央には、大きな硝子の水槽がひとつ、ぽつんと置かれています。
けれど、泳いでいるのは魚ではありません。
ゆらゆらと漂っているのは、誰かが見た夢や、叶わなかった願い。
そんなものたちが、淡く光る欠片となって、水の中を彷徨っています。
水槽のそばに、一人の少女が座っていました。
顔には、名もなき花が咲いています。
彼女は両手で、ひとつの瓶に光のかけらを丁寧に収めていました。
それが、なんの光なのかはわかりません。
どこから来たのかも、なぜここにあるのかも。
けれどその光を見つめていると、胸の奥がかすかに温かくなったり、
またある時はちくりと痛くなったりするのでした。
その感覚は、懐かしさにも似ていて、
まるで、どこかで出会ったことがあるような、それは誰かであるような錯覚を覚えさせました。
集められた光たちは、"キオク"と名づけられました。
誰のものだったかもわからない。
けれど確かに、かつて誰かがここにいて、なにかを想っていた——
そんな証を、ひっそりと心の中に伝えてくれました。
少女はよく考えていました。
この光は、偶然現れたのか。
それともわたしの想像が生み出した幻なのか。
けれど彼女には、それを確かめるすべがありませんでした。
彼女には、ここがどこにあるのかもわかりません。
現実なのか、夢なのか、
それとも、誰かが作り出した仮想空間なのかも。
何もかもがぼやけていて、ただ光だけが確かでした。
指先に触れたときの、ひやりとした感触。
そして、何も語らずとも伝わってくる「誰かの気配」。
それだけが、彼女を支えていました。
ある晩のこと。
水族館にひとりの少年が訪れました。
青い瞳を持つ少年。
声を持たない彼は、ゆっくりと水槽の前まで歩き、そこで立ち止まりました。
彼は、ずっと黙って水槽の中を見つめていました。
そして、しばらくしてから、ほんのわずかに息を吸い、
ひとつの瓶の光を、そっと指差しました。
それは、少女が最初に見つけた光。
「さよなら」と言えなかった、誰かのキオク。
そのとき、瓶の中の光がふわりと揺れ、
少女の花がすこしだけ、やわらかく香りました。
──あなたも、この光が見える?
声にはならなかったけれど、少女のまなざしが、そう問いかけていました。
少年はやはり何も言いませんでしたが、ほんの少しだけ、頷いたようにも見えました。
この夜を境に、彼らは水族館のなかを歩きはじめました。
冷たい床に散らばる、キオクのカケラをひとつずつ拾い、
また新しい瓶にそっと封じていきます。
それが、旅のはじまりでした。
カケラを拾い集めて、
それを誰に届けるでもなく、納めていく旅。
誰もいないはずだった世界。
けれど、ここにはまだ、何かが残っている気がしました。
思い出なのか、痛みなのか、それとも名もなき者たちの最後の願いなのか。
わからないまま、彼らは光を集めつづけていました。
ただ、心のどこかで確かに感じていました。
瓶のなかに灯る光は、まるで自分自身の内側にもかつてあったようだと。
水族館の奥には、まだ誰も開けたことのない扉がありました。
その先に広がるのは、失われた世界の残響。
あるいは、ふたりがこれから出会う、まだ知らない想い。
旅は、始まったばかり。

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